『中国だからしかたない』という空気が世界の未来を殺す。

第十八回全国中国共産党大会の前日の7日、開幕した8日の2日間で、未だ少年ともいえる15歳の僧侶を筆頭に10代から20代の男女が、ダライラマ法王の『チベットへの帰還』と『自由』を希求しながら焼身自殺した。2009年から69人のチベットの人々が中国共産党チベット政策に抗議するため自らを炎に投じるという、歴史を振り返っても他に例を見ない凄惨な抗議が続いている。中国共産党がどんな詭弁で状況をごまかそうとしても、現在のチベット内地の人々は地獄を生きているという証だ。



今日アムド地方(青海省)では、その焼身自殺による抗議を支持するため、現地時間のam4:00から、10000人以上ともいわれるチベット人の大学生、学生が集まっての大規模なデモが進行している。純粋な気持ちで同朋の抗議を称え、その死を悼む未来ある子供たちに、心ない武装警官の銃が向けられること、発砲がないことを、と祈る気持ちが続く。



長い時間、生き変わり死に変わり、培って来た信仰をずたずたに引き裂かれ、アイデンティティを剥奪され、一挙一動始終監視され、歌を歌えば武装警官に連行され、詩を書けば消息不明に、心から敬う法王の写真を持っていただけで『愛国教育』という名の残酷な拷問に遭う。日本を含め西側諸国で生活しているわれわれには想像を絶する恐怖と圧迫の現実をチベットの人々は生きている。ダライラマ法王への募る思いと、法王がチベットの地を二度と踏むことはないかもしれないとつのる焦燥感はもはや限界を超え行き場がない。



仮に中国共産党のずるく、根拠のない妄言に一千万歩譲って、ダライラマ法王が、『分離主義者』で『悪魔の化身』であったとしても、中国共産党という異様な形態を持つ国家に、他に危害を加えることのない完全に丸腰のその素朴な仏教徒たちの『生命』を一刻一秒休む事なく脅かし、『人権』を蹂躙し、生命への最大の贈り物である『自由』を剥奪する権利がある、という言い分は認められない。豊かになった中国国内の84%の富を所有する10%の中国人富裕層が、ローマ、コンドッティ通りのブルガリで、数十万ドルの宝石を物色しているその間に、チベットでは僧侶が、若者が、お母さんが、お父さんが絶望と悲しみと怒りを世界に伝えようと絶叫を天に挙げながら燃えている。チベットでは、そんなぎりぎりの『異常』事態と緊張が波うちながら、もう63年も続いているのだ。



そのチベットの異常事態に、少数の英米紙を除き、世界のマスメディアは目を閉ざし、耳を塞いでいる。その『沈黙』は、後年取り返しがつかない事態を世界規模で引き起こすかもしれない、というのにだ。明日の地球の未来への鍵は、あらゆるデータや事象を鑑みるに、残念ながら中国が握っていると考えざるを得ないと数々の識者が言うにも関わらず、チベットで現在進行している、かつて人類が体験したことのない凄惨な抗議に対するマスメディアの『沈黙』は、全体主義容認とそれに伴う自由剥奪という最悪の未来を自ら売り渡していることと同じだ。



世界じゅうのメディアが好奇の目を注ぐ中、替え玉なのか、薬を打たれて教育されたのか、変わり果てた姿のGu kailaiをたった数日の裁判で執行猶予つきで死刑判決を下し、中国共産党大会の一週間ほど前にBo Xilaiを見事に政治闘争から排斥した中国のその一連の報道を追いながら、この国には『法』は存在しないのだ、裁判は海外向けに仕方なく仕組んだ儀式にすぎないのだ、と改めて恐ろしいと考えた。人の罪は、争いと横領と裏切りと嘘と陰謀に充ちた『全能の神』である中国共産党が全てをジャッジする。しかも世界の目などおかまいなしに、かなりひどい稚拙な演出で。



謎に包まれたこの一連の事件について、詳細の確証を持たないメディアは、総じて疑いに充ちた、推測文調で報道しながらも、時が経ち、事態が収集するうちに、いつの間にか中国共産党に丸め込まれたような消極的な報道に転じたように思う。当初、不審な死を遂げた英国ビジネスマンをエージェント、諜報員の可能性あり、と報道していたフィナンシャルタイムもいつの間にか、そのことには触れなくなった (追記:ワシントンポストが11月7日に、英国人ビジネスマン、ヘイウッド氏はやはり英国諜報部員だったという記事を掲載していたということだが、今となってはだからどうなるというわけでもない情報になってしまった)。結局何が事実だったのか全く理解できないまま、すでに描かれていた筋書きにメディアもねじふせられた形になり、疑惑に満ちながらも「中国だからしかたない。またガタガタ言われると面倒くさい」という空気が漂い始めた。さらにイタリアに住んでいると、最近ではその空気が国中に、しかもおおっぴらに充満し始めたように思われる。



中国の毛沢東以降の、資源獲得とテリトリー拡大のための異様なほど貪欲な侵略と、謎に包まれた政治の展開、チベット、ウィグル、内モンドルにおける人権蹂躙をイタリア市民は知っている。知ってはいるが「中国は、まあ遠い国だし、自分たちの生活に直接は関係ないように思われるし、それに何しろ中国なんだからしかたない」そんな空気が感じられる。チベットで69人もの焼身自殺があったというのに、イタリアの大手メディアは口裏を合わせたように(そして多分本当に口裏を合わせていると思われるが)しんと静まり返っている。ときどきレプッブリカ紙、コリエレ・デラ・セーラ紙サイト内のジャーナリストのブログに個人の見解としての記事が掲載されるだけだ。イタリアの通信社、ANSAだけがチベットの異常事態を随時報道してはいるが、その報道が一般の市民に伝わることは、はなはだ稀だ。勿論Facebookなどの限られた支援者同士のコミュニケーションは活発に行われているし、イタリアの支援者たちはイタリアに住むチベットの人々とも情熱的に議論を展開させ、あらゆる支援と意見を惜しまないパワフルなグループだが、マスメディアや支援者ではない人々に影響を及ぼすには至らない。尖閣問題も含め、地政学上、中国の動きにきわめて敏感にならざるを得ない日本とは比べものにならないほど、イタリア市民の中国共産党への認識は甘く、あるいはロマンティックとも言える現実離れしたものだ。



イタリアの現在の喫緊の問題は、ドイツを含め、EU全体にだらりと重くのしかかる経済危機である。35歳までの若者の失業率が30%を超える深刻な現状をいかにして打開していけばよいか、病院など保健機関の予算はどのように捻出すべきか。イタリア国債スプレッドの危険水域への上昇の折り、ナポリターノ大統領の一存で、緊急事態宣言の下、無選挙で急遽首相に就任したモンティ首相のテクニカルな財政緊縮案で、あらゆる全ての税金は突如として高くなり、『節約』が市民の日常となり、誰もがこの『危機』とどう対峙していくか、その話ばかりが繰り広げられる。



さらにここ数年、モンティ首相指揮下のイタリアは、中国との連帯をぐんと深めている。誰もがチベットが大変な状況であることを知ってはいるが、中国という国が、どこか怪しげで信用できなくとも、もはやイタリアの経済賦活のためにはなくてはならない、ビジネスチャンスに充ちた国だと疑わない。例えば今年の6月、ダライラマ法王が来伊の際、過去数年かけてダライラマ法王への名誉市民贈呈を準備していたミラノ市は、中国大使館の圧力で、抵抗することなくあっさりと中止した。中国政府は2014年に予定されるミラノEXPOの重要なスポンサーでもあるからだ。



当時、「法王は世界じゅうで名誉市民をすでに数限りなく得ていて、ミラノ市が名誉市民を贈呈しなかったとしても、われわれチベット人は残念でもなんでもない。法王は名誉市民コレクターではないのだから。ただこう簡単に中国大使館の圧力に屈する、イタリアの第一の産業都市の姿勢を大変に懸念、心配する。イタリアはすでに中国の圧力下に置かれ始めている」というチベット人の青年のFacebookへの投稿は支援者の間で大きな波紋を呼び、また、この一連の出来事にはメディアも反応し、TVでも新聞でも連日、ミラノ市長ピサピアの中国対応の弱腰を非難する報道が相次いだ。しかしイタリア、ミラノの権威を揺るがす市長の行為を非難したそのメディアも、チベット尊い生命を賭けた抗議には口をつぐんだままだ。亡命政府の要人がイタリアに訪れる際には、必ず大使館が圧力をかけ、何人かの政治家たちは、その圧力に怯えて私的には会見しても、公の場には姿を見せない。



この事実はイタリアという国も、チベット青年のFacebookの投稿が言うように、すでに侵略され始めているということではないか、とわたしは考える。ある分野に関しては自由を放棄せざるを得ない状況に置かれているということは、やがてその分野は増加していく可能性があるということだ。
「中国だからしかたない」というあやふやな態度を、イタリアも、世界各国ももはや決してすべきではないと考える。今のチベットの状況に対する『沈黙』は、世界の未来を不安定にする。今の『沈黙』は、チベットだけではなく、わたしたちにとっても大変危険な行為だ。無関心はわたしたちをとんでもない未来へと運んで行くかもしれない。


Tibet is burning.