RENROU-human flesh seach-という現象

ネット世界を彷徨ううちに、中国に特有の現象、RENROU即ちhuman flesh seach『人肉捜査』(この江戸川乱歩の短編の題みたいな言葉は個人的に使いたくない、恐ろしい字面なので今後は使用しません)という言葉に何度か巡り会ったことがある。良くも悪くも中国でのネットパワーというのは鬼気迫るものがある、と思っていたのだが、数日前のイタリアの経済紙の日曜版エイリアスにそのRENROUについての記事が掲載されていた。中国の人々のメンタリティを考えるうえで興味深いレポートでもあったので、ちょいと要約しつつ、考えてみる。

さて、エイリアスではイタリアの人々には全く馴染みのない、この現象をいくつかの例をあげて紹介するところから記事が始まる。まず紹介されたのは、自身が猫を殺す課程を撮影するという猟奇的なビデオを匿名でWEBにアップをした人物のrenrouによる捜査。ネチズンたちはカルトな情熱でネット上に捜査線を張り、証言を集め、厳密に分析調査を繰り返したあげく、遂にはその人物とそのサディスティックな殺生が行われた場所を特定。その人物を白日のもとに晒し糾弾した。

【ところで記事を読みながらふと思い出したのは、2008年チベットで大規模抗議が行われ、オリンピックの聖火が世界じゅうで抗議を受けた年、公の民主的な場で、チベットの人々に理解を示し、中国、チベットは互いに話し合うべきだと語り、ネット上で糾弾されたデューク大学中国人留学生のこと。
↓ここに当時の記事
http://www.nytimes.com/2008/04/17/world/americas/17iht-student.1.12091641.html
国家を裏切ったと写真がネットに流れ、彼女はひどく脅迫された。上記の記事ちゅうで彼女は「自分はチベットの『独立』を支持しているわけではない。彼ら(ネットで異常に憤る人々)は自分の国を本当に愛することを知らない」と語っていた】

さらにもうひとつ例としてあげられていたのが、Wenganで起こった殺人事件。16歳の少女が川で死体で見つかり、当初殺人事件として立件されようとしたにも関わらず、警察側はある時から不自然に「自殺」説を掲げ前言を翻し捜査打ち切りを通告した。警察と平行して独自にネット上で証言を集め、被害者の生前の生活を洗い上げるなど、捜査を行っていたネチズンはその通告に不満を持ち、絶対に「殺人事件」と断定。しかも殺人者は少女の友人で政治的に重要なポストにある人物の息子だと主張したのだ。この件はネット上に留まらず、この事件に疑問を持つ500人以上の学生たちが警察署の前で抗議をはじめたのをきっかけに、やがて30000人もの人を巻き込んでの抗議に発展することになる。当局と人々がもみ合いになり、多少のけが人も出るなどのトラブルのあと、結果、当局は再捜査をせざるを得ない状況に追い込まれた。

ところで、このrenrouという現象をエイリアスでは、なるほど、という分析をしていた。

renrouに参加することは、彼らが考えるところの不道徳、不正と見なされる出来事に矛先を向け、ネット上で他人と情報、分析を共有することであり、それが例えば個人メイル、その他の個人情報をハックするような行為を繰り返しての情報収集であったとしても、参加自体が「正義」の行動であると一般のネチズンは見なしている。renrouは現代のアクティビズムのひとつの形態であると、彼ら自身は考えているのだ。

そもそも貧しさに喘いでいた国があまりにも急激なスピードで経済が発展したことにより、中国では社会に大きな歪みが生まれている。インターネットは彼らにとってその歪みを正すためのツールであり、権力者の傲慢、社会を正すという名目でさかんに利用されるが、その実、社会に溜まるフラストを解消させるためにもおおいに力を発揮している。たとえばある政治集会の写真をWEB上に載せた途端、その席で、ある官僚が吸っている煙草が100ドル(普通の煙草は1ドル弱)もするような高額な煙草、そのうえ、腕には高価な腕時計が輝いていたことにネチズンは激怒、強烈な非難が浴びせ、その官僚は将来を失った。

renrouはまた、文化大革命をも思わせる現象でもある。密告、スパイ行為、ハッキング、プライバシーという観念の欠如、公開処刑、これは中国文化の古典ともいえる現象だ。それがインターネットという自由な、個人的なフィールドで、新たに形を変え、中国人のアイデンティティとして引き継がれている。renrouは正義を追求しているというが、それは即ち不徳な権力に対する革命なのだ。そもそも正義を貫くというのは儒教的な傾向ではあるが、renrouには儒教の片鱗は感じられない。当局は常にネチズンの動きを監視し、ネット規制を強化させているが、ある教授はこう言う。「ネチズンはそれほど馬鹿じゃないですよ。次から次に規制を逃れる方法を考える。この事実から見てもrennrouは権力に常に対抗していることが分かるでしょう?」

さて、この記事を読みながら、わたしはふと考える。中国では今や現代のアクティビスムとも見なされる、このrenrouという現象を単純に文革の余韻と見なしていいものか。確かにこれはきわめて暴力的に個人を断罪する危険な現象だ。しかし、反面、権力の不正を暴く民間のジャッジとして働く場合もある。エイリアスの分析通り、密告、ハッキングされた情報をプライバシーを無視して公開する、という方法は文革と同じ傾向だが、大きく違うのは、文革のときのように明らかにプロパガンダで洗脳された人々が動いているわけではないということだ。ネチズンネチズンの社会基準、価値判断、自由意志で行動している。これは自由を渇望している市民が力を持ち始めている証ではないか。

さらに経済状況の変化など、なんらかの外因で社会に大きなうねりが訪れれば、ネット上で影響力がある人物だけでなく、ネチズンの主張が一瞬のうちに広まり、社会を変える原動力になるかもしれない。中国の現状の政治形態において、ネットの力というものは想像以上にリアルな社会に影響を与えるという構造になっているようにも感じる。ネチズンは当局の規制が強くなるほど免疫力をつけ、規制を逃れるあらゆる手段を講じる。最近当局はネットへの匿名の投稿を禁じたが、自由な発言と采配の場を求めて、ネチズンたちはそれをもすり抜ける方法を見つけるだろう。ネットというメディアを完全に規制することは不可能だ。

エイリアスによると、中国の人々は実生活で、常に誰かに見張られているのではないか、と怯えているという。中国には39、000、000の情報工作者、スパイが存在する。その数、総人口の約3%。

その言論の自由を縛り付けられている中国で、ネットという情報が『無限』に向かって膨張し続ける『人間の日常の精神活動の映し鏡』を通じて、人々が情報を共有し、次第に変わっていくのだろうとわたしは考えるし、そうあってほしい、と願っている。したがって、ダライラマ法王がTwitterで試みたチャットはその一歩として大きな意味を持つと思っているのだ。