上海万博のコメントにコメントしてみる

ここ数日、あるエージェンシーのブログ(上海万博関係タイトルの記事)のコメントを読んでいると、へえ? と思われるコメントがあり、むくむくと反論したい気分が湧き起こってきたので、ちょっと反論させていただこうと思う。このコメントを書いたおじさま(って意外とうら若き女性だったりして)は、親中派のビジネスマンか、中国国籍をお持ちの方か、なんだかとても悠々と、好々爺風に書いていらっしゃったが、わたしの反論は、決して攻撃ではなく、どうぞ、もう少し現状をご覧になってください、という気持ちでもあります。

以下、コメントの一部。
それまで村の論理で生きてきた中国人が、オリンピックを機に「外」を意識し始めた事があると思う。「外」を意識し始めた時、人々は初めて「恥」の意識を持つ。マナー〔礼)を守る国民としての意識が生まれ始めたのだろう。それは同時に「中国人」という一体感を醸成する事にも役立った。


その通り、「礼を知らざれば、以て立つことなきなり」(『論語』堯日篇)だと思います。
われわれはぜひ中国の方々、特に政治、経済を司る方々にそうあっていただきたい、と心から願っているのです。この場合、「礼」とは社会的な道徳規範のことですよね。しかしおじさま、最近確かに中国政府は収賄、人身売買をはじめとする数々の不正を、ぼちぼち摘発していますが、いまだに闇に隠れて「臓器売買」というような、想像を絶する非人間的なビジネスも行われているのが、どうやら実情のようですよ。イタリアにベッペ・グリッロという若者たちに大人気の社会派コメディアンがいまして、Padcastなどを通じて、その中国闇の「臓器売買」について告発しています。「なんでも市場、市場で金儲けの対象だなんて、われわれは一体何て時代に生きているんだ。今に腎臓マーケットだの、肝臓マーケットだのと、臓器マーケットにマネーが流通する日も近い!ああ、何てことだ。サンタマドンナ!」と叫んでいます。


今の中国という国は問題が表面沙汰になると「恥」じて(というより面子が大切なので)、なんとか取り繕おうと嘘に嘘を上塗りしていますが、彼らに例え「礼」を尽くしたいという、ポジティブな意志があったとしても、まだまだ「礼」には遠い処にある国です。わたしも孔子を尊敬していますが、残念ながら、現中国が西側に喧伝する『儒教』は現在の中国は毛沢東以来、繰り返された現代の『焚書坑儒』のせいで、孔子の本質倫理の精神を欠いた、ただの対外的な「イメージツール」になっているような気がします。


最近、こちらの大学にも「儒教ラボラトリー」というものが出来、さも「孔子の教えを忠実に守ってきたか」のように政府により広報され、イタリアの人々の向学心を刺激していますが、聞く話によると、学者たちは『儒教』をリサーチするために「韓国」や「わが祖国、日本」の研究文献を参考にすることもあるようですよ。もちろん、大変にインテリな人々も中国にはたくさんいらっしゃいますが、インテリであればあるほど、倫理の本質を知りすぎるほど知っているため、反政府的言動、行動が中国政府を震撼とさせ、「なんとかして黙らせたい人々」でもあるようです。孔子が聞いたら嘆くだろうと思いますよ、今の中国政府の体制は。



(())孔子の理想とした政治のあり方とは、有徳の君子が「仁・義・礼・智・信の徳」をもって率先垂範を旨とする政治にあたることであり、人民に道徳や良心を植え付けることで「自律的な社会秩序」を構築することであった。故に、孔子が始めた儒教は、悪事をした人間に懲罰を与えて痛めつけたり自由を奪うことで犯罪や無礼を抑止しようとする「法家」(韓非子・李斯)とは正反対の政治思想といえる。孔子は、「人民の恐怖(処罰)」によって秩序を維持する政治を行うことに反対し、「人民の徳化(教育)」により自発的な社会秩序を生み出そうと尽力したのである。


あれだけ激しい西側マスコミの人権攻撃にも拘わらず、中国の少数民族暴動は沈静化しつつある。件数はいざ知らず、大規模な民衆の支持を得る事出来なかった様である。無論、当局の厳しい取締りと懸命な復興政策による懐柔があったには違いないが、それだけでは人々の心を捉えることは出来ない。それは、少数民族を含め「中国人」という身内の枠を意識し始めているからではないか。


これは聞き捨てなりません。おじさまは経済ブログにコメントなさるわりには、マスメディア、それもある限られたメディアしか目を通していらっしゃらないのではないか、とバランス感覚を疑います。まず、『西側マスコミ人権攻撃』という言葉自体が、おじさまがグローバルセンスを欠いている証拠です。このレトリックだと『人権』という言葉がまるでマイナスな意味合いを含んでいるようにも受け取ることができますが、率直に言わせていただくと、西側の『人権』を大切に思うマスコミを威丈高に否定してみせ、敵対しているということですよね。


このような用法で『人権』という言葉をお使いになるならば、『人権』という法の背景にあるフランス革命、さらにその背景のキリスト教はもちろん、遡れば『ルネッサンス(古典復興・人間性の再確認)』をも、さらに遡れば『ギリシャ民主主義』をも否定なさっている、と受け取らざるを得ないでしょう。これは実に重大な過ちで、現代の世界の成立過程を、根底から理解してはいらっしゃらない証拠と言いたい。『人権』は、今後アジアが物心両面で発展するためには、絶対欠かせないコンセプトだと、わたしは言いたい。『環境問題』(グリーンディールなど)と同じく、『人権』というコンセプトの周辺には、医療、教育、厚生施設などの『産業』、経済発展の基盤となる可能性がおおいにあるのです。


さらに『少数民族暴動の沈静化』という表現には、能天気も甚だしいと言わせていただきたい。これは2008年以降、3月以降のチベット内で起こった、決死の抗議行動を指しての表現と思われますが、まず『暴動』という言葉を使うこと自体が、中国プロパガンダにコントロールされている証拠です。今、実際チベット内部で何が起こっているか、当局の厳しい取り締まりのせいで、人々がどんなに辛い状態にいるか、ぜひグーグルでリサーチしていただきたいと思います。まず、『暴動』なんて起こっていないから、鎮静化も何もないのです。また、メディアを遮断されているから、内部でどんなひどいことが起こっているかわれわれにはほんの少しの情報しか、入ってこないのです。さらにダライラマ法王が「今は辛いが忍耐のとき。抗議活動を行わず、知を磨くことに専念しなさい」とおっしゃる声はチベット内部にも届いています。どんなに力で押さえても、チベットの人々は、チベットの誇り、アイデンティティを決して失ってはいない。おじさま、どうぞ現実をしかと目を見開いてご覧になってください。ネットの時代です。情報はいくらでも手に入れられますよ。


しかし巨大な人口から生み出される、真のエリート頭脳の台頭は目覚しく、中国は急速な変貌を遂げつつある。そのスピードはオリンピック後の日本の10倍以上である。間違い無く今度の上海博で世界の中国観は大きく変わるであろう。おそらく真似事でない中国独自の最新技術が展示され、世界はあっという驚きをもって受け止める事になるだろう。


う〜ん、これはプロパガンダ風ですね。でも、上海万博が節目になる可能性はかなり高いとは思います。いえ、わたしはおじさまとは真逆の意見。目標を失い、経済が停滞し、潜在していた無数の解決されていない問題が何らかの形で表面に浮き上がる、という意味でです。そうそう、そのとき世界はあっという驚きをもって受け止める事になるでしょうね。


おじさまもどうかご自愛くださいませ。中国投資はそろそろ手控えたほうがいいかもしれませんよ。というか、おじさまは中国国籍をお持ちかもしれませんけれどね。