再び、中国とわたし

おそらく北京はいま、この世の春を謳歌しているのだろう。
経済危機からこちら、世界各国、特に先進国と呼ばれる国の最大の関心時は自国の経済を立て直すこと。したがって、わがイタリーのベルルスコー二首相がエリベザス女王陛下に叱られるという珍事(そのまま英国の牢屋に入れていただきたかった)で、計らずも活躍してしまったG20でも『人権』の問題はちいさな囁き声として、『チベットをはじめとする、中国内における人権問題を憂慮している』と通り一遍、形式的に表明されたにすぎない。そしてそれも「チベットは中国の一部」である、と認識された上でである。そんな各国の反応(ってフランスとアメリカだけだったけれど)はフーチンタオにとって、目の前を蠅がブンブン飛び回るぐらいにしか、感じられなかっただろう。
昨日のBBCのニュースでは、中国経済は2009年のうちに回復する、とエコノミストが多少の希望的観測も含め、しかし自信に満ちて語っていた。まさに北京の経済力は飛ぶ鳥を落とす勢いで、怖いもの知らずの感を世界じゅうに印象づけている。まるでこのままのイケイケの中国が、永遠に続くかのような錯覚をわれわれに与えながら・・・・。しかしその甘露な風をそよそよと運ぶ北京の春の背景は、実は『書き割り』である、という可能性が非常に高い、とわたしは常々感じているのだ。


ちょっと思い出してみよう、数年前の世界金融市場を。そのとき金融市場に関わる誰もが、世界経済の発展はこのままイケイケで永遠に続くかのように誇らしげに語っていた。イタリアの金融機関で働く全ての人々もまた、ウオールストリートの人々と同じように『この世の春』を謳歌していたのである。あのころは、マスコミの情報だけで動いている金融の末端の営業マンたちも、過去の統計と各社の業績を自慢げにレポートしながら、「必ずもうかりまっせ」と絶対の自信で、外国人のわたしに株だの社債だのを売りつけていたものだ。2007年の暮れ、「全部売るよ」と言うと、その若い金融マンは血相変えて「君は間違っている。まだまだこの株は上がる。Oh No! あとで後悔するぞ」と吐き捨てるように言ったっけ。今、銀行で顔を合わせると決まり悪そうにしているけれど、統計よりも勘があてになることがある、ということを、わたしも彼のおかげでよく理解できた。もちろんその『勘』にも根拠となる情報があったことはあったのだが。つまり経済もまた『人心』が大きく関与している、ということだ。「このままじゃ行かないだろう」という人間の潜在意識は市場に反映する。


そう、今は『絶対』に思える状況も、実際のところ『絶対』ではない。現象界には『絶対』などあり得ないことは誰でも知っていることだ。甘くせつなく狂おしい蜜月もあれば、悲しいお別れも来るのが定め。残念ながら『諸行無常』の世界にわれわれは生きている。そしてそのような誰もが知っている単純な視点で、毎日ニュースを見る、いろんな人のブログを読んだり、ネットで検索してみる、という程度で知っている今の世界、中国の動きをぼんやり俯瞰して観察していると、この先中国の現政権の方針が長続きするとはどうしても思えない。そしてそれはわたしだけじゃなく、周囲の誰もかれも、またチベットに興味があまり無い人までがそういう発言をたびたびするのを聞く。


まず、中国という国の国際的なスタンスは時代錯誤もはなだしくあまりにも滑稽すぎる。チベットウイグル内モンゴル問題だけではなく、不当に扱われている漢人自身の不満や憤りの火種を抱え、バランスが悪すぎていつ爆発してもおかしくない状態を、綱渡りで歩いているという印象。中国政府は博打を打っているとしか思えない。それもかなり幼稚なシナリオで。これでどこまでいけるか、いけるところまでいってみようじゃないか。


それは一見、ダイナミックな姿勢のようだが、それに巻き込まれる(すでに巻き込まれている)世界にとっては迷惑な話である。ちょっとした弾みで今にもちりぢりに分裂しそうになっている状況を、経済力と嘘(それもはたから見ると、恥ずかしくなるような)でなんとか押さえてつけているという状態で、国際政治に名乗りを上げた中国を、各国もどうやって扱っていいのか分からないのが現状だろう。国債をカタに取られているアメリカはなおのこと。でもまた、西側だって馬鹿じゃない。実のところ水面下で結構手を打っているのではないか、という予感もある。世界の覇権が中国に移るかも、なんておめでたいこと言っているのはマスコミだけだ。西側だってこの屈辱的な状況を何とか打破するため、いつも虎視眈々と突破口を探していて、EU内の発言にしても、この苦境が過ぎれば、と意地が見え隠れしているのが実情。西側にだって中国以上の謎がある(でも人権は大切にされてます)のだ。ずるがしこいから、それが表には見えないだけで、緻密に布石を打たれた策略というのは、シナリオを読まれては元も子もない。あとから、ああ、そうだったのか、と分かるような策略こそが真の策略なのだろう。


今日はイースター前で休日気分(いいねえ、この自由な空気)だったので、かねてからしっかり読みたい、と思っていた王力雄氏の『チベット独立ロードマップ』を読み、また再び08憲章を読み直し、ほらね、と非常にたのもしく思った。王力雄氏のこの論文は、さらに読みこんで、いずれしっかり解釈、要約してみたいと思っているが、今日のところは、歴史は必ず変遷する、しかも中国の歴史をひも解いて過去から学ぶなら、かの地の覇権は変わるとき、あれよあれよとダイナミックに、あっけなく、嘘のように変わってきたとだけ書いておこう。歴史のなかにもその『博打メンタリティ』は見え隠れしている。


なにはともあれ、今日は過去の体験で、中国の愛国教育の成果としての一青年のちょっと痛々しくて、考えさせられた思い出をひとつ。
去年、ナポリ大学が主催した講演会に出かけたことがある。
そのナポリ大学の東洋学部ではかつて、ジョゼッペ・トウッチhttp://en.wikipedia.org/wiki/Giuseppe_Tucciが招聘に尽力した、かのナムカイ・ノルブ師が教鞭をとっていたこともあり、現在もイタリア内では有数のチベット学の権威でもある。そのナポリ大学が主催した講演会は、2008年春、「チベット内部に起こった大規模な抗議行動を熟考する」という議題で開催されたのだが、パネリストととしてイタリアで大きな発言力があるジャーナリスト、ルーチョ・カラッチョロやTibetologa(チベット学者)ジャコメッラ・デ・アンジェリ教授、親中派の評論家(奥さんが中国人ということだけで、名前を忘れてしまったが、レプッブリカ紙にもよく書いている)、Tibetan communityの青年が出席してディスカッション形式で行われ、学生だけではなく一般の人も多く訪れ、激論が闘わされ、会場は大変な活気だった。


そのときのことである。わたしが会場をうろうろ歩いて、どんな人がやってきたのかを観察していると、群衆のなか、一眼レフのNIKONのカメラを持った一人の中国人の青年とふと目が合った。「ああ、いやだ、中国人スパイがまた来てる」と思った瞬間、どういうわけか彼が親しげにウインクしてきたのである。「わたしを同胞と間違えてるな」と咄嗟に思ったが、でもそうじゃなかったら申し訳ないかな、「善き中国人」かもしれない、先入観はいけないと、わたしも適当にウインクを返してみた。すると彼はにっこり笑って、親指をくいっとたてて、「OKだ、まかしておけ」というジェスチャーをしたのである。わたしはなんとなく居心地が悪くなって、別のコーナーへ移動した。


ディスカッションでは熱弁が繰り広げられ、親中派の評論家と親チベットの学者、公正な視点から分析をするジャーナリストと、いまいちどTibet Issueについて考えさせられる提議がいくつもあって、大変有意義であったが、その間、ときどきちらりと中国青年のほうを見ると、カシャカシャ写真を撮り続けている。彼はわたしと目が合うと、やっぱり親しげににっこり笑ってウインクするので、わたしはそそくさとまた前方へと目をやるのだった。


さて、質疑応答の時間が始まり、一般の方々や学生がパネリストにさまざまな質問をはじめ、少し時間が経過したときだ。突然その中国青年が、ずかずかと壇上に上がってきて、マイクを取ったのである。誰も制止することができないほど、あっという間の出来事だった。
マイクを握りしめた彼の手は震え、緊張で顔が真っ赤になっていた。やがて英語で、次のようなことを、途中ときどき唾を飲み込みながら、一生懸命訴えた始めたのだ。


「ここに集まったみなさんに、中国からイタリアに来て勉強している一学生としてお願いしたい。西側のメディアは、とんでもない嘘つきだ。寄ってたかって中国人を悪者にしようとしている。中国の悪いところだけを取り上げて、そこだけに焦点をあて、いかに中国という国がひどいかというでたらめの話を捏造して報道している。チベットは今ではとても豊かになって、われわれ漢人よりよほど優遇されて、みんな幸せに暮らしているのだ。今回の暴動(と彼は言った)は西側とダライ亡命政府にそそのかされた一部の青年たちが起こしたことだ。また、どこの国でも国内に問題を抱えているはずだ。ヨーロッパの国々はコソボの人々にどんなことをしたか思い出すといい。僕は中国人として、断固として主張したい!中国を悪者扱いすることはやめてほしい!と。僕はイタリアの文化を愛している。西洋の知識を学びたいと思っている。ここで、人々と仲良くしたいと思っているんだ」


彼の目にはいっぱい涙がたまっていた。しばらくの間は、だれもが固唾を飲んで見守っていたが、途中でチベット青年とジャーナリストが、「君のいいたいことはよく分かった。まだたくさんの人の質問が残っているから、あとでゆっくり話そう。ディスカッションが終わったら、外で待っていてくれ」となだめ、ようやく彼を席に座らせたのである。


結局、チベット青年とジャーナリストと三人で、そのあとずいぶん長く話していたようだ。その話し合いの行われているすぐ近くで、わたしも様子を伺っていたが、そのうちの誰も激高せずに冷静に話し、最後には電話番号のやりとりもしていた。
あとでチベット青年にどうだった?と聞くと、「思い込みが激しいけれど、決して悪いやつじゃないよ。僕らの話もちゃんと聞いて、もう一度よく考えてみる、そしてまた話そう、と言っていた。僕は、外国にいる彼らみたいな青年に期待している。長くこちらで勉強してるうちに、自分たちの国がどのように判断されているかをよく見極めてくれると思う。そして再び判断すればいいのさ。ともかく話し合いができる、ということはとてもポジティブなこと。国内でできないのなら、外にいる僕たちが中国の若者に歩みよって、話し合っていくしかないからね」と言っていた。



ナショナリズム。自分の生まれた国を愛することはとてもいいことだと思うし、誇りを持つことも大切なことだと思う。確かに彼の言う通り、西側の報道も決して公正であるとはいいがたいとも思う。事が起こったときに、やんややんやとはやしたてるだけでは、何の解決にもならないのだ。昨日も2008年、3月14日のラサの抗議行動の首謀者として、4人(うち二人執行猶予2年)の前途あるチベット青年がスケープゴートとして死刑の判決を受けているが、http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=24419&article=2+Tibetans+sentenced+to+death+by+Chinese+court 少なくともイタリアでは今のところ、それらのニュースに関して何の報道もない。でもこれは大変なことである。中国は秘密裏にこそこそ、とんでもないことをしながら、法律という大義をもっても、内乱の扇動者としてチベットの人々を裁いてきた。自らを堂々と『正義』だとアピールしながら。これは自由を訴えることは犯罪だと、極刑に価すると広告しているのと同じこと。そしてその中国政府の『法律』とやらは、都合によって柔軟に歪められる、万人に不平等なものである。


経済問題が全面に出て、だれもが足下を心配する現在、中国を非難する記事は極端に少なくなった。中国では毎日、チベットの人々だけではなく、民主的、人道的なアプローチで社会問題に取り組んでいる人々が次々に逮捕され、拷問され、あるいは知らない間に消されてしまう。それをよほど注意していないと、世界の人々も中国国内の人々も知ることはできない。 


嘘で塗り固められた情報と歪んだ価値観で、前途ある青年たちを洗脳する中国のマスコミ、いや、中国の現実の姿を真っ正面から、冷静に報道する姿勢の少ない西側のマスコミの罪も深いとしかいえない。そしてまた、わたしたちも知らないうちに洗脳されていないことを願うばかりである。