風邪の合間に読む「地獄の思想」

「それ、豚インフルじゃないの」と同居人まで、わたしの周囲二メートルに絶対近づかないのだ。
「もはや豚インフルっていう言葉は使ってはならないのだ。養豚業者の人々の迷惑になるからだ。また、豚マーケットが打撃も受ける。この経済危機のときには、皆で助け合わなければならないのだ。流言飛語は禁物である。また今はインフルエンザAと呼ぶのである。あるいはH1N1と新聞には書いてあるではないか。したがってその豚インフルという言葉は使わないでほしいのだが....。熱はない。したがってインフルエンザではなく、普通の風邪である」といっても、疑わしそうな顔で、じろじろ遠巻きにわたしの様子を伺っている。そしてわたしが近づく気配がすると、音もなく別の部屋へ移動するのだ(広い家ではないので、距離を置くのは至難の技にもかかわらず)。このような些細な日常の出来事から、わたしは同居人の「本性」をするどい洞察力で見抜くのである。


とまあ表面上はおおげさに病気ぶっているが、昨日わりと早い時間からゆっくり眠ったら、今日はずいぶん調子もよく、本当は横になっている必要も全然ないのだが、病気を理由にごろごろ横になっていることがあまりに甘美なため、今日一日くらいは、病気ぶってごろごろ本を読むことにした。こういうときにはやっぱり「地獄の思想」だ、と梅原猛先生の初期の本を選ぶ。地獄と風邪と、なんの脈絡もないのだが、なんとなく日本の「仏教」に関する本が読みたかった。


わたしは梅原猛先生のファンだ。碩学にして気取らない文体。最近の若い思想家の方々の文章には、現代フランス哲学書の翻訳みたいな文章を書く方が多く、まあ、それもそれでわたしが攻撃的な気持ちのときは、「読んでみようじゃないか」という気にもなるが、風邪をひいたときなどはやっぱり梅原先生の心やさしさ、人間味があふれる「のである調」の文章が読みたい。


この本は、以前に読んだことがあるのだが、わたしは読んだ本の内容を、簡単に忘れてしまうため、再び読み返したときも新鮮な驚きがあって楽しかった。仏教を志す人間としては、師の語る言葉は、一片も聞き逃してはならないので、こんなことではいけない。少しずつ集中力に磨きをかけなければならないともひそかに案じてはいるが、そうは思っても、やはりすぐに忘れてしまうのだった。


さて、今日はその本のなかで、心に残った一節を書き残しておきたい。昭和47年、すなわち1972年に書かれた文章であるのに、少しも色あせず、むしろ世界が経済危機であたふたしている今こそ、この先生の問いをもう一度、熟考すべきではないかと思うのである。


釈迦の知恵(欲望を消滅させることにより、清澄なさとりに達する)は、技術文明の社会に生きる人間の知恵と正反対の方向にあるかもしれない。しかし釈迦の欲望否定に疑問を加えたのは近代人ばかりではない。大乗仏教は、むしろこうした欲望論への批判として起こってくる。なんらかの意味で、もう一度欲望が肯定される必要がありはしないか。この現世とこの文明とが、もういちど意味をとりもどす必要がありはしないか。それが大乗仏教の問いであった。

しかし、そこにおいても、人はなおかつ環境と世界を変える知恵にとぼしいというかもしれない。たしかにそこにはベーコンやデューイやマルクスの実践力はない。私はこの欠陥を認めよう。しかし、今、世界が人間どものはげしい欲望で戦争や動乱の苦しみにあえぐとき、はたしてただ人間の欲望をそのままに肯定し、欲望のままに争い、その争いにより、動乱の解決をはかるということでよいのであろうか。無反省な西洋の権力意志によって世界は統一されたが、その権力意志が歴史の悲劇をまねいている現在である。深く、人間そのものの欲望を考え直すべき時代ではないか。人間の欲望そのものに深い反省を加えず世界の地獄化を救うことができるのだろうか。


西洋で仏教がこれほどまでに受け入れられる要素は、尽きぬほどにあるが、根本には、この無反省だった西洋の権力意志の有り様が、紆余曲折を経て、西洋の人々によって反省されはじめたからではないか。オバマ大統領が演説で言ったように「世界は大きく変わりつつある。だからわれわれも変わらなければならない」。友人の芸術家が「今の中国は、西洋の最も悪い部分だけを真似したことにより、ああなってしまったのだ」と嘆いていたけれど、それにわたしも大方賛成している。


経済紙などは今年戦後初めて、世界GDPがマイナスになると騒いでいるが、だいたい一本調子でGo&Goであることが異常だったのだ。限定された資源しかない地球上で、経済がひたすら、しかも猛スピードで成長し続けたその先に、限界が待っていることは、どう考えても明らか。このへんで、システムの大変換が行われなければ、マヤカレンダーでいうところの、「衝撃の1012年、地球崩壊説」は、まんざら冗談ではなくなってしまうかも。あれ、そういえば、胡錦濤政権交代も1012年だな。もしかしたら本当に、そのころ世界はさらに大きく変わるかもしれないような気もするな。いやいや、もちろんよい方向へ。混乱の世界が再生へ向かうとき、わたしらが応援するチベットの文化は「シンボル」としても「実践力」としても、新たな世界観を形成する基盤になりえるな。そのときはもちろん日本にもがんばってほしいもんだ、とそんなことを「風邪」もどきの病床で、本を読みながら、ひたすらオプティミスティックに考えている土曜日であった。