出家したくなるとき

最近のわたしの毎日は、公私ともに結構ヘビーで、こんなときは、もう何もかも投げ出したくなる。「出家」という言葉が脳裏をかすめて、俗を捨てればどんなに楽だろうとも思う。こんなときは性癖としてふらふら「旅」に出たくなるが、この今の「旅」願望というのは旅の延長であるはずのイタリアの生活が、つまり日常になり、ここが異空間ではなくなってしまいつつある、という現実に直面しているということだ。


まったく言葉の分からない、誰のことも知らない場所へ行けば、さぞ楽なことだろう、とふと思うが、それも幻想だということは、充分承知している。ここの次はアフリカってところだが、サハラ砂漠に昔行ったとき、うねり波打つデューンを眺めながら、こんな砂の海原でこのままふと違う次元へ溶け込んだら、どんなに気持ちがいいだろう、とも思ったっけ。まあ、いいや、本当に行きたくなったら、何もかも捨てて砂漠へ行こう。ランボーみたいでかっこいいかも。そういうわけで、わたしはまったく修行が足りない。


一切皆苦」。お釈迦さまは本当によく分かっていらした。まったくその通りだ。人生というのは「苦」に彩られている。それを少し理解できる年齢になると、それが分かっただけでも、気分は楽だ。残念だけれど、これはどうしようもない。わたしは小津安二郎の映画が大好きだが、「東京物語」の台詞で(うろ覚え)、「お姉さま、わたし嫌だわ。ひどいわ。みんな自分勝手で。自分のことしか考えてなくて」と憤慨して訴える主人公老夫婦の末娘に、神々しいばかりに美しい原節子が「そうよ、世の中って嫌なことばっかりなのよ」と優雅な笑みを浮かべながらきっぱりと言う場面が、やたらに胸に残っている。その映画を観た当時は、何故、あんなに美しい笑みを浮かべながらそんな台詞を原節子が言ったのかよく理解できなかったが、今ならよく理解できる。深い! 小津映画。あのときの原節子は菩薩だったのだ。



閑話休題。こんなときこそ、リラックスして、瞑想したりして「魂」を休ませて、意識を超えた異次元を逍遥とすることだ(雑念ばかりだが)。それに瞑想の真似をして眠った夜は、一晩ぐっすり寝ると、多少気持ちが変わっている。tomorrow is the another day 。少なくとも眼差しだけはスカーレット・オハラに挑んでみよう。


ああ、ヒマラヤの雪を抱いた峰をこの目で見てみたいなあ。山のひときわ澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、心のもやもやがすっかり雲散霧消しそうだ。カラッと晴れ渡る青空みたいに。そんな雄大な自然を守ってきたチベットの人々が、中国政府のせいでひどい目に合っていることは、したがってどうしても許せない。そんなことを考えながら、今夜もヒマラヤの写真集を見て、一人トリップするのであった。泣き言いいながら。