なぜ、Tibet? 個人的理由

Tibet Issueに関わりはじめて、ときどきモチベーションを再確認したくなることがある。なんでイタリアくんだりでTibetなの?と自問自答することが往々にしてあるのだ。まず、わたしはTibetに出会うまで、こんなに一生懸命他人の問題に首をつっこんだことはない。そもそもが大変なエゴイストで個人主義。なのになんでチベットなの? そこで今日は軽く、モチベーションを再確認してみたい。

ダライラマが好き・・・くったくなく、はつらつとして、シンプルで(これが一番大切。シンプルでありながら真実を語ることのできる人は、本物だ)人々に希望を与える人柄と深い知恵。まったく気取りがなく、ユーモアにあふれている。普通すぎるほど普通の振る舞い。行動に作為がまったくなく、権力を振り回さない、そのうえ正直な指導者をわたしは理想的だと思う。人間はここまで磨くことができるのだ、という勇気を与えてくれる人物、それもわれわれの深層意識にぐいっと染み込んでくる不思議な魅力は本物のカリスマ。イタリアにも熱狂的なダライラマファンが多く、おっかけもたくさんいる。
これはあぶない。ハマりそうだ。だから僭越だとは思いながら、いつもダライラマを疑おう、距離を置こうとわたしは努力しているつもりだ。カリスマというのは往々にして人を騙すことがあるからだ。カリスマ的なパワーにハマってしまったら、目が見えなくなってしまうし、どんなへんてこなことを喋っているのを聞いても、なんだか正当に聞こえてしまう。人は意外と簡単に魔法にかかるからね。
わたし自身は宗教、神秘主義にたいへん興味を持っているし、チベット密教をさらに勉強したいと思っているが、むやみな信仰というのか、好意というか、感情的な判断は、わたしのような修行もしてない凡夫にとっては、得てして幻想夢想になりがち。特に一神教的信仰は裏を返すと暴力的にもなる。そうそう、Loveと一緒だね。思い込みっていうやつ。あばたもえくぼ、になってしまうのは、立派な大人としてはちょっと避けたい。そういうわけでリアリティというか、俗の価値観というか、平衡感覚を忘れずに、Tibet issueの政治的動きを追いながら、一人の人間として「ダライラマ」という人物を観察していきたいと常々思っている。そしていまのところは、やっぱりダライラマは偉大な人物だと思っている。

チベット人が好き・・・そりゃ人間だからチベット人のなかにも、目立ちたがりや、嘘つき、あまり仲良くしたくない人間もいる。当然だ。チベット人であろうとイタリア人であろうと日本人であろうと、人間関係の仕組みというのは、多少の感情表現の違いはあってもそうは変わらない。わたしはかつてパラダイス症候群で、パラダイスを求めてバリ島や東南アジアをうろうろ旅したことがあるが、美しいジャングルやお洒落なビーチに住んで、旅人にすり寄ってくるロコの90%は嘘つきだったし、お金を騙しとられたこともたびたびあったから、もはや人間というものにあまり幻想を抱いていない。えっと「人は自分に利益を与えてくれる人間を善と呼び、自分に害を与える人間を悪と呼ぶ」と言ってたのはスピノザだったっけ。ともかく人を判断する際に、人間関係レベルの善悪という価値は、何のものさしにもならない、と思っている。自分にとって実務的に善人と思えない人間とはつきあわなければいいだけの話だ。
ではチベット人の何が好きか。
まずわたしの出会ったチベット人青年たち、それは難民になって第二、第三世代の青年、娘たちだが、本当に難民?というほど明るく、元気で、惨めなところが少しもない。むしろ皆無だ。堂々としている。チベット人としての大きな誇りを持っている。国土を侵略されて国籍はない若い青年たちが、わたしら国際的にしっかり守られたパスポートを持っている日本人よりよっぽど明確なアイデンティティがあることに、つきあい始めたころは驚いた。英語はほとんど誰もが話すし、イタリア語だって、こちらに亡命してきて2、3年も経てば、ほとんどの子がベラベラ話している。イタリア化して、女の子を見ればベラベラ口説かずにはいられない男の子もいたりするのはいいね。基本的にわたしは不謹慎が大好きなのだ。(ちなみにチベットの男の子はイタリアでもてるよ)。とはいえ、たとえば現在のTibetan Communityを運営しているTop10 や 三歩くんは、ボローニャ大学で修学して、今ではイタリアの病院でお医者さんをしているのだが、舌を巻くほど頭が良くて、西洋文化に精通しているにも関わらず、チベット語の歌を歌わせたら天下一品、チュパを着て堂々と歩いているのを見ると、かっこいいなあ、サムライみたいだなあ、なんて勝手に思うし、こういう子たちが育っているのは、お母さんたちやダライラマも嬉しいだろうなあ、とわたしだって嬉しく思う。大切なTibetの精神を守りながら、表現は常にイノベーションされてるってのがモダンだ。さらに、こんな困難な状況で「希望」を絶対に失わない姿がいい。「希望」は人の目を美しく輝かせるし、強い希望に裏打ちされた「信念」こそが、奇跡を実現させるとわたしは信じているからだ。はっきり言うと、わたしが彼らに勉強させてもらっている、ということだ。ダライラマも偉いが、ダライラマを支えている彼らも偉い(政治的な意見についてはいずれ書くこともあるから、ここでは心情的な支えということに留めよう)。
いや、むしろわたしはチベット国民が一番偉いと思うのだ。ダライラマという希有な人物を生み出したチベット文化を支えてきたのは、何百年もの間、チベットで生き変わり、死に変わった無数の人々の深い信仰があればこそ。利他主義、慈愛という仏教コンセプトを守ってきた名のない人々の(もちろん悪人もいるだろうけれど、チベットの人々と接するとその心やさしさに打たれる人も大勢いるはず)素直な心と、寺院を経済的に支え、僧侶、すなわち俗レベルでは非生産的である精神文化の達人たちを大切に思ってきた、ごく普通の善男善女が太っ腹でいいと思うのである。そしてその太っ腹は現代のチベット青年にも受け継がれている。
もちろんチベットにだって血塗られた歴史があるし、天竺ってわけでは決してないのは百も承知、それでも、目には見えないけれど、かなり高度な幸せを実現する文化を、チベットがいままで守り続けることができたのはやっぱり、普通のチベットの人々のおかげだ。
わたしはそのチベットのせこくない、太っ腹なところが大好きなのである。そしてチベットはわたしの「希望」でもあるのだ。今世界が必要としているのは、チベットの精神みたいな太っ腹なエネルギー。世界は今大混乱で、何がいいのか、悪いのか、分からなくなっちゃってるからね。
だから今は悲しいニュースが多いけれど、みんなで力づよく歩いていこう。

モチベーションは他にも、数え上げれば切りなくあるけれど、今日はここまで。またの機会に書こうと思う。
明後日は試験だというのに、全然準備ができていない。これじゃ点数甘くなっちゃう、学生ちゃんが可哀想だと、明日は一日勉強するぞ。げげ、卒論の面談もあったんだ。こんなにチベットチベットって言ってると、頸になっちゃうな。