アイデンティティはどこにあるか

今日はチベット内部からイタリアに直接やってきた青年と、チベットにたびたび出かけているイタリア人の青年と一緒に昼食をとる。

イタリア青年は、今まで4回チベットに長期滞在して、チベット語も日常会話なら問題なく話すことができるそうだ。その彼は、「毎回、チベットに行く度に風景が変わる。開発が進んで自然も破壊されつつある。修行者が落ち着いて修行できない場所になりつつあって、チベット文化を残すためには昔ながらの人々の生活を守らなければならない。また中国的、というか西洋的、というか俗の文化が入り込み過ぎ」と嘆く。


反面、チベットの青年は、「開発されるのはかまわない。いまや遊牧民は、あっちの山からこっちの山と、携帯電話で連絡をとりあっていて、近代テクノロジーチベットの生活に浸透していくのは、とても重要なこと。チベットの文化も、生活もイノベーションされるべきだ。たしかに中国の開発で自然は損なわれたが、道路ができて、村から村への移動が簡単になったのは否めないこと。ただ、もっと都市計画的にしっかりプランをたて、自然を損なわずに開発すべきである。中国政府のやることはすべてやっつけ仕事。しかしどうして我々が西洋的、というか俗というか、そのような文化を受け入れてはいけないのか?」と最後に疑問を呈した。


このチベット青年は中国政府のプロパガンダ通り、チベットの経済が発展し、生活は近代的に便利になったから、チベットの人々がしあわせになったと言っているのではない。
チベットが望んでいるのはもっと基本的なことだ。目に見える部分ではなく、目にははっきり見えない部分の自由だ。その自由が認められなければ、表面的に生活が便利に、近代的になっても、それは豊かさでもなく、自由でもない」


つまり経済が豊かになっても(このチベット青年も、その経済の豊かさというのも、非常に表面的な開発で、チベットの人々は格差のある待遇を受けているとはっきり言っていたが)目には見えない部分、宗教の自由、表現の自由、思想の自由、すなわち『人権』が守られない社会では、人は決してしあわせになれないということだ。そしてそれはまったく当たり前のことでもある。


古典的に西洋の人々は、チベットにシャングリラ願望がある。チベットの人々が60年前のまま、近代テクノロジーを知らない、世界の仕組みをしらない、ハリウッド映画を知らない、俗のもろもろの誘惑を知らない人々であってほしいと願っているところがあって、それは日本人にどうして丁髷を結って、着物で外交しないのか、といっているのと同じことだ。日本人が洋服を着て生活することを「西洋の真似をして嘆かわしい」という前時代的な人が、いまだにいるくらいだ。日本人で、洋服は「西洋」のもので、「西洋」の真似をしてそれを着ている、と思っている人など一人もいないだろう。


アイデンティティというものは、本来、目に見えないものである。そしてその「沈黙の部分」が最も大切なのだ。「沈黙の部分」が力強く、強靭であれば、必ず文化は守られる。