瞑想はいかがわしいのか。

日本の友人にチベットが大好きだ、瞑想も実践したい(結局、なかなか定期的に実践できないのだが)と話すと、約半数の人から「え?ついにハリシュマも宗教にかぶれたのか」という反応が返ってくる。


反対にイタリアで「何の宗教を信仰しているの?」とたびたび聞かれ、「別に何の宗教をも信仰してはいないけれど、チベット仏教についてはもっと勉強したい」と答えると「神道じゃないのか、禅仏教徒でもないのか?」と驚かれる。カトリックの国である。独善的傾向にある教会に対しては反感を持っている人々も、こころの底にはイエス・キリストへの深い尊敬と信仰があり、DNAレベルには「神」の存在がしみ込んでいる。元過激な共産主義者無神論であるはずの友人のおじさんたちに、「神」は存在するのか、と尋ねると、ちょっと考えて「神」は存在する、存在するとしか思えないような事実がある。と答える。つまり自分はカトリック教徒ではないが、「神」は存在すると言うのだ。彼らはマルクス資本論』とともに、エックハルトやハクスレーの神秘主義の本なども読んだ70年代の青年でもあり、コミュニストであっても、ソフトコミュニストである。したがって、現代の中国の批判者たちでもある。


そういうわけで、イタリアで暮らしているうちに「宗教」とか「神」というものに、わたしは抵抗がなくなって、どこでもここでも、瞑想だの、チベット密教だの、と話すようになったのだが、日本のわたしの何人かの友人たちにとっては、「瞑想」だなんていかがわしい、というか、あやしげな世界というか、そういう風に受け取られるのは残念なことだ。多分、オウムの影響なんだろうが、オウムは罪が深いとしかいえない。あの白装束のインド人の服装を真似しているのか、あの世の人の集団なのだかよく分からないような人々の犯罪により、いまだに人々に「瞑想」って、なんかいかがわしく恐ろしいもののように捉えられているようだ。あの人たちって、結構中国政府と繋がってたんじゃないの? シュンデンみたいに。 ロシアとは繋がってたみたいだし、などとも勘ぐりたくなる。


反対にイタリアでは一般的に「瞑想」することは、とてもよいこと、大切なこと、と捉えられている。一年ほどまえ、デヴィッド・リンチが、映画ではなく、瞑想のための講演会を開いたのだが(彼は人々に瞑想をすることは、非常に頭脳がクリアになる、素晴らしいことだ、と、薦めている)、そのときも大勢の人々が彼の話を聞きにやってきて、広い会場はすし詰めの状態だった。また、「瞑想」の科学的リサーチもたくさんの研究機関で行われており、U.S.AのMind & Lifeの流れを汲む研究者たちも、イタリアにはたくさんいる。


そういうわけで、「瞑想」といえば、いかがわしいもの、と考えるわたしの日本の友人たちにも、その思い込みから解き放たれてほしいなあ、と思うのである。

でも、まあ、それぞれいろんなことを、いろんなふうに考えるのは自由だからね。無理強いはしません。