優しさはどこから生まれてくるのだろう

酔っぱらってろれつが回らなくなくなった(とわたしは理解しているのだが)中川財務相のG7のローマでの記者会見の映像は、「信じられない」とイタリア人の友人たちの間で話題にもなったが(英国のBBCが流したような、財務相をからかうようなコメントはなく、淡々と放送された。英国人はかなり意地悪だ)、辞任という結末に誰もが一様に驚いたようだった。もしかしたら、わたしの友人たちというのがおおらかすぎるあまり、国際感覚の常識がないのかもしれないのだが、彼らは「なんて日本人は厳しいんだ、意地悪とも言える」と言ったのだ。


わたしにしてみれば、国際舞台であのような醜態を演じてしまったのだから、しかたないかな。同じ日本人としてはやっぱり恥ずかしいことだ、ぐらいの気持ちでいて、あまり深くも考えていなかった。「だって会見の前に彼が普通じゃないってこと、周囲の誰もが気づいていたわけでしょう。もしどうしてもハズせないような大切な会見だとしても、普通の状態で会見することができないんだったら、病気だとか何とか言って無理矢理キャンセルするなり、代理の人間を立てるなり、そういう方法もあったはず。彼をどうしても辞めさせたい動きでもあったの?」と尋ねられた。


さて、わたしは日本の現在の政治の状況をライブで把握していないので、その辺のニュアンスはまったく分からない。したがって返答のしようもなかったが、「日本人って、突然ドラスティックで暴力的な決断をするよね」と言われたのだった。その批評を聞きながら、そういえば、ずいぶん昔に読んだ英国の通俗小説に『世界で最も残酷な種族である日本人の・・・』(英国人にはそんなこと、あまり言われたくないけど)という記述があったのを思い出す。そうか。外国の人からは、そういう評価をされることもあるんだ、日本人は、と思ったのである。


イタリアにやって来て、わたしが、まずイタリアの社会に感じたのは、『異質なものを受け入れる』懐の深さである。もちろん、人々が饒舌に「わたしはこう思う!」と自己中心的に自分の意見を途切れることなく喋りまくるのには、時折辟易するが、そんな人でも、すぐそばで「物乞い」の人が手を差し出すと、ごく自然に(ジプシーをはじめ、恐ろしく沢山の物乞いがローマにはいるのだが)、ポケットからごそごそと小銭を出してハイっとあげるのには驚いた。もちろん、手を差し出す物乞いすべてに小銭を渡しているとキリがないので、「あ、今日はないよ」ということもあるし、不機嫌なときは無視もするが、あちらこちらに突然出没する物乞いの人々を疎ましがったり、排斥することもない。彼らもなんとなく、コロッセオをバックに街の風景に溶け込んでいる。また、いわゆる路上生活者のために公共施設がボランティアで、簡単な食事を毎日配給していることにも驚いた。


別にわたしは路上生活者ではないが、このユルユルの社会の雰囲気はいいなあ、と思ったのだ。もちろん、そのユルユルの社会のせいで機能しないことがたくさんあって、頭に来ることもしょっちゅうあるが、人間関係に緊張があまりないというのは精神的にとてもいい。「甘え」の社会であると言ってしまえば、そうかもしれないが、イタリアの、この「自分より弱い者に対しての優しさ」は、基盤にカトリックの信仰があるのではないか。カトリックの民衆レベルの倫理観が社会にしっかり根ざしているから、人々は自然に、弱者に対して優しく振る舞えるのではないか、と最近とみにそう思うのだ。


もちろん、わたしは神学、あるいはドグマのレベルを無視して、人の暮らす日常のレベルについて、こんなことを書いている。「聖域」を背景に持つ(この場合、神さまですが)社会の人々の「温かく受け入れることがあたりまえ」という包容力を、わたしは心地よく思うからだ。かつてニーチェが『神は死んだ』と宣言してキリスト教を批判し、多くの現代哲学がその宣言をベースに発展していったとしても、わたしは単純に、いまだに人々の心に生きる神への畏れが「人間性」を守っているのではないかと思うし、わたしも弱者の一人として、ここで暮らしていると精神的に調子がいい。教会のシステムには疑問に思うことも多々あるが、生活レベルではたいへん気楽で、突飛なことを喋っても、社会から排斥されないっていうのは安定感があっていいものだ。


ミラノにダライラマ法王がいらしたとき、正確な表現はどうであったか定かではないが、そのお話のなかで、「イタリアにいるチベット人たちは幸運だ。イタリアの人々のおおらかさは、チベットの社会のおおらかさに通じるから、リラックスして暮らせる」というようなことをおっしゃっていた。
わたしがはじめ、チベットの青年や娘たちに大きな魅力を感じたのも、そのおおらかさと心優しさにあったのだが、今日は「人の優しさ」とは、いったい何処から生まれてくるのだろう、と考えた一日であった。