チベットの、憎まずに話し合う包容力

今日、日本人の友達に会って、「チベットにもダラムサラにも行ったことがないのに、どうしてそんなにチベットのことばっかり話すの?」と問われ、理由を挙げれば、いくらもあるのだけれど、やっぱり単純に「ダライラマ法王とチベットの人々が好き」だからかな、と答えた。「チベットの人々の何が好きなのよ」と問われ、「大きいところかな」と答える。


わたしを始め、ひどい状況に直面すると、簡単に「被害者」になって、ひどい目や悲しい目や辛い目に合わせた人間たちを「加害者」と見なし、防御本能が働いて、恨むか憎むか攻撃するか、そういうネガティブな反応をしがちだが、わたしの周りのチベットの青年や娘たちは、ひどい目に合った(そして今も合っているのだが)その事実をちゃんと理解しながら、それでも中国の人々に両手を広げようとする。このような態度と心持ちをわたしはその都度、とても尊敬する。「中国の人々が悪いわけではない。彼らも僕たちと同じ人間で、同じ心を持っているんだから。問題は人々ではなく政府だし、プロパガンダをそのまま信じているだけなんだから」


たとえばチベットのイヴェントなどが行われる際のビラ配りをするとき、中国の人々が通り過ぎると自ら近づいていって、チベットの状況を説明しようとするし(たいていは、みんな逃げるように立ち去るが、なかには立ち止まって、話を聞く中国の人もいるのは素敵だ)、中国の人々の気持ちも理解しようと努力する。


今年の中国が定めた農奴解放の記念日に、中国人青年から電話をもらい「今日は君も嬉しいだろう?」などと言われたチベットの青年は(わたしだったら激怒するかも!)、「彼は何にも知らないのだし、だからちゃんと説明したよ。たった一人の青年でもいいから、状況を正確に理解しておいてほしいから」


毎日起こるヘビーな事件や、ヘビーなニュースで気持ちが滅入ったり、現実逃避してしまいそうなわたしに、はっと我に返る態度を思い出させてくれるのは、チベットの青年や娘たちである。もちろん人間だから、それぞれ個人には、いろんな欠点があったりもするけれど、そんなちいさい欠点も全部帳消しにするのは、彼らの「憎まずに、近づいて、話し合おうとする態度」、包容力。


そんな話をするわたしに「ふうん、いいね、チベット」と日本人の友人も納得してくれたのだった。
ほんとうに、そうなんだ。攻撃したり、対立したりすることは簡単だけれど、憎まずに、近づいて話し合おうとする態度には、とても大きな勇気がいるのだ。わたしも彼らから、その勇気を学ばなければならないと思っている。


世界で何が起こっているか、現実はちゃんとこの目で見て行きたいが、やっぱり彼らのような大きな気持ちで見ていって、行動しなくてはならない、と思った一日だった。