南京のシンドラーをテーマにした映画

今日、外出先で「この記事読んだ?」と見せられたのがコリエレ紙。あ、もう、しばらくコリエレ紙は見たくない、と言ったのだが、「日本のことだよ」と言われ、ざっと目を通す。


Florian Gallenbergerというドイツの映画監督が作った「Jhon Rabe」の映画評であった。南京虐殺をテーマにした映画で、善き『ナチスの党員』が250000人の南京の人々を日本軍から助けた映画だと言う。彼は中国のシンドラーと呼ばれているが、悲劇的な一生を送る。この映画は現在中国では評判が高く、ドイツでも観客数を伸ばしている。近々イタリア、フランスなどの欧州各地でも配給になるということ。日本ではデリケートな内容ということで配給会社がボイコットをしたということが批判的に書かれていた。


そのボイコットに関して、俳優Ulrich Tukurのコメントで記事がくくられていた。
「われわれドイツ人と同じく、日本人は戦争で大きな罪を犯したのだ。われわれは日本で配給されるように誠実に努力した。日本人にとっては大変に辛いことだと思うが、映画を上映し、事実について謝るべきだ」


南京の件について水掛け論をするつもりは毛頭ない。わたしは戦争は絶対に反対だし、無辜の人々が命を落とすような状況は、過去も現在も、それが中国であれ、チベットであれ、ダルフールであれ、世界のどこであれ、許しがたいと思う。自分自身を含め、家族や大切だと思っている人が、目の前でとてつもない恐怖や辛い目に合うことを喜ぶ人はいないだろう。それは世界の誰もがそうだと思う。そしてそれが正常な人間だと思う。


日本はODAという援助も含め、何度も中国に謝罪しているとわたしは認識している。もちろん謝れば済む問題ではないことも百も承知している。わたしのイタリア人の友人は、「自分たちはムッソリーニがやったことを直視する。だから日本が映画のボイコットをすることを理解に苦しむ」と言ったが、中国側の見解と日本側の見解が異なる南京の、大変にデリケートな状況、いつでも燃え上がる兆しのある火に油を注ぎたくないというメンタリティは、日本人として理解できる。同時にその友人の見解ももちろん理解できる。


日本もまた「原爆」という大変な破壊兵器の唯一の被害者でありながら、それを逆手にとって、過去の「被害者」という立場は利用してこなかった。日本の歴史もまた、「敗戦」という絶望の上に、沈黙と涙を昇華させた野望により成立したもので、日本は過去、「加害者」であったこともあり、「被害者」であったこともある。そう、わたし個人は認識している。だからこそ日本人として、または、「日本人」という枠を超え、わたしという一個人として、できる限りの平和を願うのだ。「加害者」にもなりたくなければ、「被害者」でありたくもない。そのどちらでもないスタンスこそが「自由」な状態なのだと思う。


ともかく、やがてイタリアで封切られるというこの「映画」を観ようと思う。そしてもう一度、メディアというものを考えてみたい。
そしておそらく西洋、或は外国のメンタリティと出会うとき、日本という国は論理的に、明確に自己表現をしなければならない。間違いは間違いと認め、謝るときは謝り、正しいときは正しいと主張すること。簡単なようでその理論の背景が確固としていなければ、相手を説得することは難しい。日本人同士、なんとなく分かり合える「間」の微妙な頃合いを、外国の人々にはまったく期待できない。それはわたし個人の経験からも、嫌というほど身に染みている。