民主主義について

わたしは日本で生まれ、『民主主義』のもとで育ってきた(はずだ)が、日本に住んでいるころは、実のところ『民主主義』とはいったい何であるか、ということをあまり考えたことがなく、みんなが「今の日本の状態が『民主主義』なのだ」と言うから、そうなんだろうと受け入れてきた。しかもわたしが日本にいたころはバブルまっさかりの誰もが浮わついた時代であったし、政治がめちゃくちゃであっても、人々は消費の洪水ですっかり正気を逸していた。つまり『民主主義』とはいったい何なのか、などと言う問いを深く考える環境ではなかったのだ。しかし、待てよ? ところで『民主主義』って何なんだろう、と考え始めたのは、欧州にやってきてからだ。


先日、学生が日本の社会について書いた論文を読んでいて、「日本の社会には『民主主義』という理念が、欧米の社会よりも希薄である」という一文に出会い、当惑した。彼によれば、その理由は「日本社会は今でも儒教の影響が色濃く残っており、自分よりも上の立場の人の意見に反対意見を言うことは忠義に反すると考えられている。上司の意見が明らかに間違っていると感じられても、部下はその采配に従う。実際、日本の近代史では民衆による革命というものは起こらなかった」ということらしい。しかしこの一文にはコメントをしない。このように簡単に定義することはできない複雑な問題だと思う。


幕末の動きを若者(志士)たちによる『革命』的な出来事、あるいは60年代の学生闘争を『革命の意志のある運動』と見なすか見なさないかはさておき、この学生の書いた一文に、わたしはずいぶん考えさせられた。おりしもここ数日のイランの人々の不正選挙(と推察されるが)に対するムサビ氏支援者の抗議行動がこれほど巨大化し、また弾圧が暴力的になり、さらにいろいろなことを考えさせられた(イラン関係の記事では、JPプレスの http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/1260 『エコノミスト』の訳が興味深い。しかし昨日オバマ大統領は、暴力を許せないことだと強く非難したようだが)。


ここ数日、イランで起こっていることも、ビルマのことも、また北朝鮮のことも、シンボリックな意味でG2の力関係の微妙なかけひきではないか、というようなことを書いたが、イランはイスラム国家で宗教の権威が最高位に置かれながら、世俗のリーダーを決定する選挙が行われるという特殊な政治形態で、独裁政権とも言えないし、またもちろん民主社会とも言えない。さきほどTVでアメリカニスタ、つまりアメリカを研究し、支持している人という肩書きのコメンテーターが言っていたが、アメリカでは、アフマディネジャドイスラムファシストと分類されるらしい。また今回の抗議活動は、誰も予想していなかったが、人々の内面には飽くなき「民主主義」への希求が弾けるまでに育っていた、と79年の革命に参加したというイラン人のジャーナリストは話していた。この人は、アメリカもイタリアもイランのことを本当に分かっていないと、非難もしていたが、何を分かっていないのか、司会者のお喋りにさえぎられて、明確な内容が分からず残念でもあった。イタリアのトークショーの司会者は自ら喋り過ぎだ。


またイランを中国といっしょくたに『G2』とひとまとめにしてしまうと大変な語弊はあるし、乱暴ではあるが、それでもアフマディネジャド大統領が中国、ロシアと大きな利害関係があることが過去の動きから明白であると考えるならば、シンボリックに世界の流れを、G2(経済の分野で使われる言葉だけれど、グローバリズムという言葉も経済の分野の言葉だし)と大きくだが、まとめてしまうことができるのではないかと思われる。もちろん、それぞれの国の事情は大きく違うため、個々にリサーチすると、それぞれの問題が違った形で浮かび上がるから、ただシンボリックに簡易化して、おおまかに世界を考えるためだ。これだけ経済がボーダーレスで、毎日マネーがぐるぐる世界じゅうをかけめぐっているのに、よその国の問題は関係ない、という姿勢は馬鹿げている。われらはもはや一蓮托生だ。


ちょっと前にある日本のジャーナリストの分析を読んでみると、民主主義をかかげる国を「独裁国家」が経済的に侵略することはいとも簡単で、彼らにとっては「民主主義」万々歳なのだ。という表現があって、なんと無責任な事を書く人だろうと思った。経済の循環を「独裁国家」に牛耳られることは、われわれに自由を捨てろ、ということだ。ネットは規制され、衛星放送のアンテナは取り去られ、孤立させられることだってありうる。チベット内部はすでにそうなのだ。http://www.rfa.org/english/news/tibet/Tibetandishes-06202009092817.html中国当局が、チベットのパラボラアンテナを取り壊しはじめた。外部からの情報を遮断するためだ)イランだってこのままエスカレートしていくと、ネットの規制がさらに厳しくなり、情報がさらに世界にもれてこなくなる。国ごと監獄という恐ろしい状況だ。


『民主主義』にはもちろん、衆愚政治に陥りやすいという難点があり、またイタリアの左派のようにいくつにも分裂して主張が枝分かれし、統合が難しい状況になることがある。また同時に民主主義社会の『文化』が平板化する恐れもあるという点(これは大変に気をつけなければならない傾向だと思うが)をもその都度確認しなければならないと思うし、デメリットも少なからずある。


また、最近友人と話していて、なるほど、と思ったのが、「古代ギリシャアゴラでの討論による民主政治には、女性、奴隷に参政権がなかったとしても、とりあえずは民衆の民衆による政治を実現させようという理想があったが、最近我々が使う民主主義という言葉は、民主的な選挙によって、どの政治家に権力を与えるか、とその決定をするシステムである」というフレーズだった。


これは、どんなスキャンダルが暴露されても、平気な顔で無視し続ける現イタリア首相を持つイタリアの人々の実感なのかもしれないが、民主国家と謳っている国家では多かれ少なかれ、政治家と呼ばれる人々を投票で選出して一旦権力を与えてしまうと、公約は反故となり、うやむやと消えていく。そのように政治が「人々の暮らし」から大きく離れて、権力間の闘争だけになると、ばかばかしくてつき合ってられない。政治家は確かに人気商売ではあろうが、イメージよりも具体的に「何をどうやって解決してくれるか」が大切だ。まず民衆の一人一人が政治に参加しているという実感を持つべきだろうし、「教育」もたいせつな要素だ。システマティックに政治を勉強してない人々をイメージだけで政治家に選ぶのは浅はかだと、政治のことがまったく分からないわたしでも思う。


その点、現在のアメリカの姿勢には学ぶべきことがたくさんあるように思う。利害を追求して中東社会をめちゃくちゃにし、貿易赤字をぐんぐん膨らませて、サブプライムでの空景気が一挙に爆発急降下、世界に波及させたアメリカの国民が「もう耐えられない、オバマ大統領を信じてみよう」、と現大統領を決定したということは素晴らしいことだ。わたしは別に西洋かぶれではないし、CIA云々のぞっとする活動に彩られた歴史も知ってはいるし、日本に原爆が投下されたことをとても悲しく思っているが、過去をほじくりかえして非難しても、何も生まれないから意味がないと思っている。


ともあれ、今世界に発言権があるのは、やはりまだまだアメリカ、いや、むしろオバマ大統領の発言こそがいまや世界の注目の的。今のところは日本の首相がG8で何か喋っても(喋ってんのかな)、誰も聞いてくれないし、こっちじゃちっとも報道されない。日本では円高が景気に響いているみたいだけれど、もっと内需を拡大しておくれ、ぐらいのものだ。また、チベットのことにしても、チベット問題は中国とアメリカの友好において、おおいに意味のある問題である、ということもアメリカの上院で最近発言されている。http://www.tibetcustom.com/article.php/20090620164214781 この発言をした外交官Campbell氏は、スーチーさんの裁判についても強い発言をした東アジアパシフィック担当の外交官だ。ところで日本の国会じゃチベットが話題になっているのかな? イタリアでは下院でも上院でも、機会があるごとに議題に上っているようだが。チベットは今後のアジアの平和的な経済発展のためには、中枢ともいえる大切な土地だ。分かっているのかな、日本の政治家の人たちは。

ところで、新華社ではこんな記事が
http://news.xinhuanet.com/english/2009-06/23/content_11583961.htm

チベットはかつての封建社会からデモクラティック(ミステリアスな言葉の使いかたをするね。どういう意味?)に解放されて、今では人々は経済の自由も宗教の自由も享受することができているのだとさ。ネットを規制して、パラボラアンテナを取り去って、何が自由だというのだろう。海外のジャーナリストをチベット内に招待した、とかいうニュースもあるが、どうせ、規制しまくった地域の当局が選出した人にだけ取材させているのだろう。また、新華社の報道は嘘ばっかりで、読んでいるといったい誰をターゲットにして記事書いているんだろうと思う。英語だから海外向けなんだけれど。世界をなめてんだね。