死んで名を残す、マイケルのこと。

昔、イタリアの文学史の短いコースを聴講していたことがあり、そのときに、詩人のウーゴ・フォスコロ(昨日はアリオストと書いていたが、フォスコロでした。失礼しました)が書いた、「死」ぬことは耐えられないことだ、しかし名を残すことでこの世に生き続けることができる、自分はそうして永遠の命を得る、というような詩について学んだことがある。まったくうろ覚えでしかたないのだが、その詩の一節はお墓がテーマだった。


その講義を聴いたとき、本人は死んでしまっていて「名」が残ったって幸福なことなど何もないではないか。何でそんなに現世に未練を残すのだろう、と不思議に思ったので、いまでも「名を残すことによって永遠に生きる」という詩に謳われていた内容が印象に残っている。そのころはすでにわたしは「やっぱり仏教が自分には合っている」と思っていたので、そこまで現世の「生」に執着したら苦しいだろうと感じた。さっきTVでマイケル・ジャクソンの映像を観ていて、そういえば、とふと思い出したのだ。


人気商売のエンターテインメントなアーティストは自我との対峙に苦悩する。人気というのは、まさに大勢の「人」の「気」で生かされている、ということだし、その「人気」という次元を超えなければ、アーティストは「自我」のラビリントに閉じ込められる。芸術を志す人は、強烈な市場志向であればあるほど、そんな経験をするはずだ。


最近まで、マイケルの奇行やさまざまなエピソードをいろいろなメディアが面白がっていたし、スキャンダルもあって、悪意に満ち満ちた報道がなされていたのに、そんなことはどうでもいいことのように小声になり、今や世界中で彼の死を嘆き悲しむニュースが駆け巡っている。世界は昨日、今日とマイケルの、あまりに人間的な悲劇に夢中だ。しかしこれこそがメディア、報道の偽善だと判断するのは、おそらく誤りだ。むしろ、これが「人気」というものなのだ。他「人」の「気」は無責任だから、大きな風が吹けば、そちらへなびくし、この一件に関して言えば、メディアはその風を増幅させ「人気」をたきつける役目をするのだ。マイケルの「死」を巡り、わたしはそんなことを思った。悲劇というものは古代ギリシャの時代から人の心をしっかりと掴んできたし、それが謎に満ちているとなると、なおさらだろう。「ネバーランド」の名称から推察できるように、マイケル・ジャクソン自身、謎に包まれ「伝説」となる筋書きを、すでに彼自身の無意識に形成していたのかもしれない。


すでにCDはさらにギネスを更新する勢いで飛ぶように売れているようだし、多分ベストアルバムや、関連書籍、映像なども続々と発売されるだろう。彼の「死」の周りには一種の産業が生まれる兆しがすでにある。その「人間」の渦巻く欲に基ずく「動き」を「嫌らしいこと」だと批判することは簡単だが、わたしは批判を控えたい。多かれ少なかれ、世の中とはそのように成立しているものだ。世間というものが、また人生というものが、欲の上に成立しているから、われわれ凡夫は苦しくてしかたなく、絶望もある。


そんなことを思いながら、改めてギネスな売り上げをいまだに誇る「スリラー」のビデオクリップを観て、監督のジョン・ランディスはただ「ゾンビホラーとポップ、面白い!」と思って創ったに違いないが、人の心に潜む「地獄」を表現している、とも観ることが可能な映像のようにも感じた。他人の気を敏感に感じ取る能力のある、繊細な心を持つアーティストにとって、ショービジネスの世界を生きることは、まさに「スリラー」の映像、魑魅魍魎、どろどろの現実に生きるようなものではなかったか。彼は若くして不動の名声と黄金を手に入れ、しかもその世界に子供の時から生きていて、それ以外の世界を彼は知らなかっただろうし、また彼の「天才」に群がってぶらさがり、黄金を手に入れた人々も数多存在し、結局マイケルはその、人の欲望が強調される、演劇的な演出に日常が彩られた(わたしはセレブという言葉がどうもピンとこないのだが)世界を生きたのだろう。


また、スリラーはあまりに影響力があった映像だから、本人もそのイメージからいかに脱するか、葛藤もあったかもしれない。だからこそ、彼は生身だというのに、いつまでも華奢で美しく若い青年のまま、クリーンなおとぎ話の世界の妖精になりたいと願ったのではないかと思う。あるいはその願いは、人々が、もっともっとと望む期待に沿うために生まれたのかもしれないが、当然のごとく実際は、彼もまた万人と同じ衰える肉体を持っていて、その現実と理想のギャップで強烈なバランスの崩れ引き起こし、そのギャップをむりやりに埋めるような数々の奇行が繰り返され、物議をかもした。


もちろんその奇行の根源には大きな自我への執着があったに違いない。さらに言えば。それはわれわれの想像をはるかに超えた、尋常ではなく膨張した自我だったのだろう。結果、その際限なく膨張した自我が、彼の外見をあそこまで変貌させたのではないかと、わたしは考える。スリラーの特殊メイクは、のちの外見の変貌をイメージさせて、はっとするが、その長い時間、いびつなファンタジー世界に生きるヒロイズムと現実の板挟みで歪んでしまった、肉体と心の痛みに苦しんだだろうと想像すると、わたしは本当に可哀想だと思うのだ。
また、その満身創痍にも関わらず、マイケルが人々を楽しませようとしてきたことは、尊いことかもしれない。現在主治医が鎮痛剤の処方を間違ったかもしれないと、二度目の検死が行われることになっているが、いずれにしても肉体は限界だったのではないか、とわたしは思う。人々を楽しませるためのエネルギーを彼は出し切った。


初期のマイケルぐらいしか知らないわたしが、今好き放題に書いていることは、全然間違っているかもしれないけれど、ともかくマイケルの「死」はわたしのように、日頃ショービジネスのことなど一向に考えない「人間」の、想像力をたくましくさせたことは事実だ。わたしの周囲の友人も、可哀想だ。とそれぞれに胸を痛めている。
結局、マイケル・ジャクソンという不世出のエンターテイナーは、「死」という最後のイベントでも、世界の人気を一度にさらった。それは「スリラー」時代をはるかに超える、轟きが聴こえてくるような人気でもある。そしてこの瞬間にネガティブイメージは、見事に打ち消され、人々の同情と愛情が注がれていることを、わたしは心から喜びたい。やっと魔法は解けて、彼は本物の「妖精」になることに成功した。わたしは好きとか嫌いとかというレベルでは、マイケルのことを判断できないが、その影響力に今回は驚き、なんと凄いエネルギーを持った人物だったろう、と感嘆した。いまからいろいろなミステリアスな話題が噴出するかもしれないが、それはそれで人々にカタルシスをもたらすものでもあるだろうし、ネバーランドの永久の住人となったマイケルは、それらがどんなに辛いものであっても、もはや傷つくことはない。子供のころから、そして「死」を超えた今も、公私ともに、彼はひたすら人々の気を惹き続ける「エンターテインメント」を具象化したような存在であった。
今日は、テレビのニュースを繰り返し観て、そんなことを考えた午後であった。そしてマイケルの名は、彼の自我が望んだように、わたしたちが毎日うおさおする世界でしばらくの間、強烈に生きのこっていくだろうと思った。したがって、マイケルは「死」してなお、この世に生きて、人々に大きな影響を与え続けるわけだ。まるでフォスコロの詩の一節のようだと、わたしはそのフレーズをなんとなく思い出したのである。