イタリアの大学の卒業式

一昨日、昨日と、卒業する青年の卒論の副主任としてディスカッションに参加するために、「心ここにあらず」、という状態が続いた。漸く昨日それが終わったが、無事というわけにはいかず、普段あまり反省をしないわたしも、今回ばかりはかなり反省してしまったわけである。


そもそもわたしは歳は食ってても、こんなことを始めて2年目の新米の大学講師だ。そして聞く人が聞けば「ハリシュマが大学講師? 筋違いも甚だしい! ああ、これこそ末法、ハルマゲドン」と絶望なさるのでは、とも恐れているので、あんまり他言はしないようにしている。お察しのごとく、態度だけはいつもでかいくせに、ライトでツメの甘い学問で世渡りをしてきたわたしには、たいしたことは教えられないからだ。専門は何ですか? と問われた場合、ちょっと考えて「魂の旅、というところでしょうか」などと答えて笑われもするぐらいで(冗談で言っている、ということぐらい分かってほしい)、そんな自分を情けなくも思っている。ああ、あのときもっと勉強しときゃよかった。すべてバブルのせいである。みんな社会が悪いのよ。わたしを騙したあの日本の80年代景気が諸悪の根源と、責任はすべて社会になすりつける責任逃避もまた、団塊の世代と言われる人生の大先達より80年代に覚えた荒技だ。「時代が僕を生んだ。キリンライトビール」、なんて、こんな広告覚えている人は、まずいないだろうな。専門家以外。


したがって、現在所属する国際リレーション学部で、わたしが教えていることは、「世界にはいろいろなメンタリティがあるよ、日本は特に独特のメンタリティだよ。そのメンタリティを小説や詩、あるいは広告のコピーや、その他のメディア、または映画などを観ながら、(もう少し勉強してインターネットまでやりたいと思っているのだが)時代を追いながら(古代言霊思想から現代絵文字表現まで)、社会学的、あるいは経済の動向との関連を考えながら分析。イタリアと比較して何が違うか、あるいは何が同じか。もっと視野を広げて、グローバルな世界を迎えようとしている今、世界はどこに共通項が見いだせるか、何が必要不可欠だと推論できるか」というようなことを、基本的には、学生とともにみなで話し合いながら進めていく、という、やはりライトなものだ。しかも、わたしも学生時代にあんまり勉強しなかった、という引け目もあり、学生たちにおそろしく甘いので、見る目のある彼らもかなりつけあがり、携帯が鳴ると「先生、すごく大切な電話なんです。僕の一生を決める電話なんだ。出てもいいですか?」などと平気で言う。しぶい顔をしながらも「しかたないね、一生を決めるんだったら。外で話しなさいよ」と答えると、そのまま二度と教室に戻ってこないこともある。それでもまあ、何事もなかったかのようなふりを、学生全員とともに装い、「じゃ、次はこれ、見てみようか。これはスーパーフラットっていう日本のコンセプト・アートなんだけれど、君たちは率直にどう思う?」がやがやがや「マンガじゃないの? これって」がやがやがや・・・などととりあえずは皆で和気あいあいとやっているのである。


実際のところ、今やっているような時間数の短いコースでは、細部まで分析し、論考することは不可能でもある。したがって、将来インターナショナルな仕事につきたい、と勉強している生徒たち(圧倒的に外務省を希望する子が多いのだが)が、「あ、今わりとクールな日本って、いろんなアスペクトがあるんだな。こんなことが面白いな、ちょっと勉強してみようかな」と、思ってくれればいいと思っている。しぶしぶ単位を取るために勉強している子もいるけれど、なかには日本の文化が面白い! とわたしよりも詳しく勉強してくる子がいるのは嬉しいことだ。ただ大きな問題はわたしのイタリア語で、大人になって覚えた言語というのは、なかなか器用には扱えず、日本語で表現できればどんなに楽だろう、と毎回ジレンマでもだえ苦しんでもいる。表現したいことを表現したいようにできないっていうのはなかなか苦しいぞ。これは立派なハンディキャップだ。そこで授業が終わると毎回、ごめんなさい、生徒たち。言語ももっと勉強するからね。と儀式のように手短かに反省する(そこでまた毎回、わたしの友人のチベット青年たちが、まるで母国語のように英語、イタリア語を操ることに感嘆するのだ、やっぱりチベット人の子たちって素晴らしいなあ、とね)


ところでイタリアの卒論と大学の卒業式。これらについては多少の説明が必要であろう。まず根本的に日本のスタイルとは大きく違う。こちらの大学は基本的に5年間の修学システムとなっていて、しかもその5年を2つの期間に区切り、3年でミニラウレア(ベースの学位論文)ラウレア(専門課程の学位論文)とそれぞれの期間に合わせて二回、卒論を書かねばならない。さらに卒業、というのも日本のように一斉に3月に卒業式を迎るわけではなく、卒業単位を取得し、卒論のディスカッションを終えたその時点で卒業、というシステムなので、ミニラウレアを3年で終える子もいれば、6年かかる子もいるし、一生大学生のままでいる、という強者も存在する(日本みたいに大学に在籍できる年数は決まっていないようだね。よく調べてないけれど)。みんなバラバラ、バラバラと卒業するわけだ(大学院はそののちの課程となる)。


とはいえ、その度に学部の先生が集まって卒論ディスカッションするわけにはいかないので、年に3回(だと思うけれど、4回かもしれない。まだよく大学のシステムが分かっていないのだった)、数日間、卒業期間として集合し学生それぞれの論文に関して議論が繰り広げられ、Votoといって各先生がたが点数を提示、最終的には学部長が点数を決定する。点数は110点満点、さらに素晴らしければ110lodeというのもあるが、平均は100点というところだろうか。


さて今回、文頭に書いたように、わたしも副主任として、ある学生の卒論議論に参加することになったのだ。たくさんの先生方や学生の父兄も来るし、大広間でその議論は行われるので、緊張してとてつもない発言をしてはならない、と前々日から慎重にコメントも用意していった。実をいえば、初めての経験だった。数週間前から同僚の先生方にどうすればいいか尋ねていたのだが、「全然大丈夫ですよ、必要がなければ発言する必要もないし。テストされるのは学生ですから」といたってライトな応答だったので、コメントを用意してからは「これで大丈夫」、とわりにリラックスしていた。そのわれながら余裕しゃくしゃくのおおらかな態度が墓穴を掘るとは、その時点では全然考えていなかった。


問題の卒論は、というと、実はあまりよくはできていなかった。日本の広告についての論文だったのだが(うちの学部ではなく、広告テクニック学部の生徒だった)、はじめ読んだとき、こりゃ感想文で何の論文にもなっていないなと茫然としたが、しかし外国人であり、副主任のわたしが「書き直しだね」というわけにはいかないので、「主任の先生に一度相談しておいで。そのあとにもういちど細部を見てみよう」と言って、主任の先生のところへ行かせた。すると「僕、日本の広告、全然分からないから、内容はこれでいいよ。ハリシュマ先生におまかせ」(丸投げ)と、どうやら言われたらしい。「主任の先生がこの内容でいいと言った」と言うのでしかたなく、ひどくおかしいところだけは修正し、リサーチできるところはリサーチし、なんとかつじつまだけは合わせたが、概ね間違った解釈が多く、しかしひとつを修正すると、全体ごと書き直しをせねばならず、時間もない。わたしにはこれ以上はどうしようもなかった、というより他はない。わたしが論文を書くわけにはいかないのだ。あくまでも彼が構築しなければならない。こうなれば、眉間に皺を寄せた小難しい教授陣に、「フレッシュで、どぎもを抜く新しい学説」として受け入れられることを望む以外に手だてはなかった。何週間かメイルのやりとりをしたり、面談したりして、学生ともそれなりの信頼関係は築いていき、彼も素朴で素直な学生だったので、できるだけ高得点でミニラウレアさせてあげたかった。


そういうわけで、いよいよ当日。父上に伴われ現れたその学生は、颯爽とした様子で、「おはよう、先生」とにこやかに挨拶するので、「パワーポイント、ちゃんと用意してきたのか?」と聞くと、「はい」と元気よく答える。わたしもほっと安心したのである。他の学生も父兄、友人たちとともにぞくぞくと現れた。いつもはGパン履いて、髪の毛をぐちゃぐちゃに束ねて学校にやってくる女生徒たちも、今日はお化粧までしてハイヒールを履いて華やいだ雰囲気だ。今日の午前中のセッションだけで12人の生徒が卒業するはずだ。やがて、しかめつらの教授陣が5人ほど広間内に入ってくると、いままでざわついていた生徒たちは急に静まり返った。少し遅れて、件のわれらの主任の先生も、忙しそうに現れる。


静かにわたしはその主任教授に歩み寄った。「副主任のハリシュマです。Bの卒論の・・・。」と小声で言うと、「ハリシュマさんか、やあ、こんちわ。しかしあの卒論はひどかったね。大変だったでしょう。ひどかった、ひどかったよねえ、ほんと。おつかれさま」と溌剌とした答えが返ってきたのだ。そのあまりに屈託のない態度に、返す言葉なく、思わず無言に陥った。(やっぱり丸投げしたんだな、見るからに典型的な陽気なイタリアの教授。明るく、さばさばしていて、無頓着。まあ、いいんだけれど、可哀想なのはBだな)と思ったが、先生は慣れているんだ。たくさんの子の卒論を何年も読み続けて、とてもクールなのだ、わたしのように、たった一人の学生のためにむっとしてはいけないのだ、と思いなおして、席についた。


さて、学生の卒論の発表がはじまって、それぞれ用意してきたパワーポイントを使って、内容はともかく、実に上手に自己表現をする。なかには、実際にドキュメンタリーフイルムを制作してきた子もいて、なかなかヴァラエティに富んで楽しく、あっという間に時が経つ。ああ、いかんいかん、コメント、コメント、ちょっと予習。とときどきコメントを書いた紙を引っ張りだしては、発表の合間にもごもご練習した。

いよいよBの番となる。彼の用意してきたパワーポイントはというと、日本の広告写真数枚だけの簡単なもの。しまった。事前にチェックしておけばよかった、と後悔したがあとの祭り。これはヴィジュアル的に他の子に劣る。ヴィジュアルで点数かせがないと、どうするの、と思った瞬間からわたしは緊張しはじめたのだ。しまった。緊張している。いかんいかん、わたしが緊張してはいけない。ほれほれ、落ち着け、落ち着け、チベットチベットチベットを思い出せ、わたしの希望を思い出せ、そうだ、マントラだ、マントラマントラ、オーマニペメフン、オームタレツタレツレソハーと、知っている限りのマントラを唱えてみたが、わたしの目の前で緊張した様子の彼が、パワーポイントを指し示しながら発表しはじめた内容が、わたしが予想していたものと全然違う流れだったので、その緊張はいよいよ最高潮に達してしまった。これじゃ用意したコメントじゃだめだ!アウト。があああああん。彼はわたしの用意したコメントと、正反対のことを喋っていたのだった。腑抜けの状態になってしまったわたしの隣では主任先生が、「ね、これじゃだめでしょう」などと言っているのがかすかに聞こえた。

「じゃあ、ここで個人的にちょっと質問してみましょうね」と学部長が彼に質問をし始めた内容は、さすがにプロ。ここで彼がうまく答えてくれるなら、今の流れを変える最高のきっかけとなってくれるはずである。その質問にはうまく答えてちょうだいよ。しかしわたしのその願いはもはや届かなかった。彼は、ウーンと考えて、やっぱり彼独自、すなわちわたしの考えとは正反対の考えを毅然として発言したのだった。


あとのことはよく覚えていない。コメントを求められ、いまさら新しくコメントを考える余裕すらなく、結局副主任として、彼の論文に反対の意見としてのコメントを読み上げるしかなかった。すなわち、論文を批判する、という結果になってしまったのだ。いまさらごめんよ。と言ったって、父上ともども、きっと君は私を憎むことだろう。学部長が提示した95点という低い点数は、わたしが彼をかばうことなく、むしろ攻撃の側に立ったからだと思うだろう。なにもかも、あらゆる可能性を計算することができなかったわたしのせいなのだ。あのとき、わたしが冷静で、機転を効かすことができれば、もう2,3点は上がったかもしれない。わたしは君に少なくとも100点のVotoがもらえるようにしたかったのだ。他の先生方もそうなさっていることだし、副主任は論文の批判者という定義がなされながら、実のところ、手だすけするために存在しているようなもの。場慣れしてないから、ということだけでは許されないだろう。主任の先生は「しかたないよね。よくない論文だったからさ。助ける余地が少なかったし、いいんじゃないの、先生のコメントで」などと、例のいかにもイタリア人らしく陽気さで、溌剌と言ってくれたけれど、わたしはそのあと、ずいぶん長い間、失意のズンドコだった。


そういうわけで、いままでもいろんな事があったが、昨日はじめて、ああ、先生であるということは、本当に嫌なことだと思ったのだった。こんなわたしの性格に合わないことはやめちまおうとも思った。だいたいわたしは人をジャッジすることが苦手なのである。なぜならわたしもまた、人からジャッジされることが大嫌いだからである。

でもBくん、論文は確かに出来はよくなかったけれど、わたしは君の人間としての素直さと真面目さを大変に評価しているよ。もはや卒業してしまった君にそれを伝えることはできないが、どうかこんなことで落胆せず、君の信じる道をまっすぐに歩いていってね。

そう思いながら、失意と落胆と自信喪失で、とぼとぼと帰路につく途中、携帯にSMSが入った。「ハリシュマさん、夕方、チベット医学の講演があるよ。来ませんか?」そのときのわたしは身も心もへとへとで、このまま一生眠ってしまいたい、という状態だったし、他のことであれば無視して、とっとと帰宅し、ベッドに横たわり、無言の夜を過ごすだろう。しかしチベットなのだ。行かねばならぬ、何より今のわたしにはチベットが必要だ、チベット医学ならなおさら!今のわたしには、慈悲に基ずく医学、精神と身体、自然との共生を教えるチベット医学が必要だ、とそのまま歩く方向を180度変え、その会場へと向かったのである。